くれあ 18歳で宝塚音楽学校に入学し、同期に誘われ、演劇のプライベートレッスンに通いだした。その先生が吉川雅恵先生。

宝塚歌劇団出身でありながら、若いうちに退団(ウィキペディアによると、私と同じく5年で退団)。その後、映画や舞台などで活躍していた方。

私が出会ったときは、先生は60代後半。
宝塚歌劇団の寮のそばに住んでいて、お月謝1万円。先生とのスケジュールさえ合えば、1ヶ月の中で、何度でも稽古に行っていい、という素晴らしさ!
音楽学校時代は、学校生活・寮生活と忙しく、基本は日曜日に行ってたかな〜。
演劇大好きくれあは、先生との時間が宝だった。
劇団に入ってからは、暇さえあれば、稽古へ。
劇団での稽古が22時に終了し、その後、上級生たちと一緒に先生の家へ行き、稽古をつけてもらう。24時~25時くらいまで稽古をつけてもらう。
稽古が休みの日も、今度は他の組の同期と一緒に先生の家へ。それこそ無制限一本勝負。

そう、吉川先生の稽古は・・・息ができなくなるくらい、怖いのです。厳しいのです。
「違うよ、啓子(私の本名ね)!!!あ~まったくビールでも飲まなくちゃやってられないね!!!」
・・・・今思い出しても、息ができなくなる。
もうね、イエスかノーしかなかった。
こちらが「そういう気持ちでやってるつもり」なんか、全く通用しない。
「つもり」は「つもり」。観ている側には全く伝わって来ない。それが全て。そんなの役者のエゴ。そんなナルシストな役者はいらない。
一言セリフを言っては「違うよ!!!」
一歩歩いては「違うよ!!!」
息を吸っては「違う!!!!!」
ほんとに息もできない。何もやってないのに、何が違うの?????
(今は教える身となり、息を吸っただけで違うというのがよくわかるようになりました)

徹底的に仕込まれました。
どうやったらいいかなんて、一切教えてもらえなかった。
ダメはダメ。いいはいい。ダメと言われたら、何度でもやり直す。自分で考える。
ほんとに無制限一本勝負。自分と先生との闘い。いや、結局は自分との闘いだったんだな。

いつも稽古に行く道のりは、心と足が重い。
「は〜〜〜怖いよ〜。ほんとに無理かも。どうしたらいいかがわからない。今日こそやめますって言おうかな・・・」同期とこんな会話をしながら、先生の家のドアの前。そこで思いっきり深呼吸をして、よし頑張ろう!今日こそは!!!と思い、ドアを叩く。
心を奮い立たせ、「おはようございます!」と元気よく。
そして5分後、木っ端みじん・・・玉砕・・・
そんな毎日。

ある日先生と、1対1での稽古の時、
「啓子、お前は宝塚でどうこうなろうと思うな。いい時期が来たら、蜷川さんに紹介するから。」

そう、吉川先生は、蜷川さんの舞台にも出演していらした。そして蜷川さんの舞台に出ている若手の指導もしていらしたそうだ。

私は、死ぬほど演劇が好きで、好きで好きで好きで、時間があれば先生の家にいた。先生もとことん付き合ってくれた。
その先生に、そう言って頂き、その言葉を信じ、ひたすら無制限一本勝負で戦っていた。

それがある日、先生はご病気で亡くなった。

私は東京公演中だった。

私の演技の基礎は、吉川先生に叩き込んでもらった。
結局、蜷川さんに出会うことはなかったけど、その代わり、大ちゃんに出会った。
蜷川さんの舞台をロンドンで観た。
私と大ちゃんも、同時期にロンドンで公演していた。
規模はま〜ったく比べ物にならない小さな公演だったけど、なんか色々なことを感じた。

今、私は蜷川さんの演劇とは、全く違う演劇を創っている。

公演中、私は毎日、たくさんの神様に感謝をする。
その一人は、吉川先生。

年々、感謝をする神様が増えて、悲しくもあるのだが、また一人、神様が増えた。

日本の演劇を盛り上げ、世界にまで引っ張り上げてくださり、感謝します。

さ、がんばろ!

※吉川先生は、無制限一本勝負が終わると、鬼の顔から仏の顔に変わり、「お汁粉作ってありから食べて行きな〜」と。そんな素敵な先生でした。