くれあ
11月マカオで公演した「楢山節考」の劇評の翻訳をして頂きました。2つあります。マカオ日報というマカオの新聞に載りました。長いですが、本当に嬉しい劇評です。ぜひ読んでください!まずはその1です!(翻訳してくださった泉さん!ありがとうございました!!!)

マカオ日報 2016年11月24日

神も泣いた 「楢山節考」を見て

李宇樑

 日本政府が最近公表した資料によれば、80歳以上の日本人はすでに1千万人の大台を突破し、2060年には65歳以上が日本の総人口の40%に達するという。日本は老齢化という深刻な社会問題に直面している。
「楢山節考」は深沢七郎が1956年に書いた小説で、日本の習俗としての棄老をテーマとしている。1983年、2度目の映画化では今村昌平が監督をつとめ、名作とうたわれた。物語が描くのは貧しい寒村で、村人らは米のかわりに粟(中国語原文では「栗」とありますが、誤りでしょう)を食ってしのぐ。70歳になると、まだ達者に働けても長男におぶさり楢山まいりをせねばならぬ。みたまを山の神にお返しするとは美名にすぎず、実のところは働きのない老人を山深くに捨て去って死ぬに任せ、貧しい家の口減らしをするのである。楢山まいりは適者生存の掟であった。物語の主人公69歳のおりんは、長男が後添いを得、孫も嫁をめとった。一家はふたりも余分に養わねばならず、気がつけば冬を越すに事欠くこととなった。孫の嫁が子をはらんだが、この地の習いでは赤子ができても口減らしに捨てるしかない。まだ達者なおりんではあったが、自分が死ぬことで赤子を生かそうと心を決め、楢山まいりを早めることにした。自らの死の尊さゆえに、楢山に行くその日にはきっと大雪が降るものと思った。言い伝えによれば、雪が降ると運がよいのだ。
演戯空間が主宰する4地域小劇場共同公演に、日本のTheatre Momentsは小劇場版の「楢山節考」を携えてきた。その冒頭の処理からして演出のたぐいまれな巧みさがあらわれている。演出を手掛けた佐川大輔は絵本をつかって物語の幕を開け、朗々とした解説に沿って画架から絵が抜き取ってゆき、最後の1枚を抜き取ると、絵の木枠の向こうから物語の主人公のおりんがにこにこと姿をあらわす。本来は悲劇の色濃い説話を軽快なタッチでスタートさせることにより、観客は物語の悲劇性を客観視できるのである。
舞台は簡素で、演出は7名の役者がそれぞれの手にサイズの異なる木枠を手に持ち、これを使って物語の背景やイメージ、雰囲気を作っていく。木枠の使い方は変化に富んでおり、部屋の引き戸になったかと思えば、泥田を耕す農具や引き車に早変わりする。さまざまな組合せ方で、いろんなイメージを作り出していく。役者は芸達者で、手足の動きもしなやか、きびきびとしてリズム感がある。ボディラインと動作と木枠を縦横無尽に使い、照明・音声が絡み合って劇場全体、物語全体のリズムを作り上げる。そうして、1枚また1枚と白い画用紙が死を待つおりんの体の上を真っ白な雪のように覆うとき、そこにあらわれる凄絶なまでの美は、簡素でありながら創意に富む。
上演した小劇場の照明と音響に特別な設備は何もないが、演出はそれらの設備機能を最大限に生かして、ごく限られた備品を使いながらすばらしい照明効果をあげ、音声効果の処理も細やかでメリハリがきいており、演技に使える空間を使い尽くして、小劇場がもつ演出上の制約を感じさせない。小劇場の核心的価値は、ミニマムからマキシマムを創り出し、制約から無限を実現するところにある。演出家はこれを知り尽くしており、「楢山節考」は小劇場での演出テクニックの模範作と言える。演出家はテクニックを芸術の域に高めて物語原作を忠実に再現しており、みごとと言うほかはない。物語を通して人間性と社会に対する厳しい問いかけができるとしたら、上演の意義はさらに高まる。
神が造ったいのちが尊ばれないとは、どういうことか。「楢山節考」が人をぞっとさせるのは、人が自然に老い衰えて亡くなるのではなく、年齢でもって人の生存価値が決められ、いのちが嘲笑の的になることだ。物語は時代背景を特定していないが、ひょっとしたら楢山まいりの適者生存の掟は我々と決して無縁なものではなく、現実世界の中に存在し続けており、資本主義社会の退職制度に姿を変えているのかもしれない。達者であっても、ある年齢に達すると退職させられ社会の重荷となってしまうのである。
物語の中に「楢山節」という唄がある。
「楢山まいりの3度目が来れば
まいた栗から花が咲き
塩屋のおとりさん運がよい
山へ行く日にゃ雪が降る」
まだまだ達者なおりんが山奥に捨てられて死を待つその日、はたして天から大雪が降った。それは雪なのか。むしろあるいは神が泣いているのではないか。